淡海の水の酔いごこち

『バー堂島』『ビアボーイ』などの著者、吉村喜彦氏の連載がついにスタート!
さかなと酒を味わいつくした吉村氏の言葉が、五感に至福を届けます。(Sakanadia編集部)

淡海(おうみ)の水の酔いごこち  文&写真:吉村喜彦

春浅いころ、琵琶湖の漁師の取材に行った。
いままで海の取材はたくさんやってきたが、淡水は初めてだ。
もともと漁師の取材をやりはじめたのは、おいしい魚でお酒を飲みたいという下心があったからである。

しかし、今回は、湖……。海の魚は美味いが、淡水魚で好きなのは、せいぜい鮎か温泉宿で食べるヤマメやイワナくらい。

──琵琶湖の魚ってどうなんだろう?

眉間に皺を寄せたぼくの肩を漁師はやさしく叩き、
「とにかく食べてもろたら、わかりますよ」
にこやかに笑うのだった。

かれの言葉に背中を押されて向かったのは、長浜市内で郷土料理を食べさせる老舗「住茂登(すみもと)」。

まずは、ビワマスとフナのお造り(フナの子まぶし)。

ビワマスはおいしいと聞く。しかし、フナは……。

黄色いぷちぷちは、どうもフナの卵のようだ。ぼくにとってフナは、子どもの頃に泥田の中で泳いでいたあの黒い魚でしかない。どうにも食指が動かない。

フナを回避して、まずはビワマスからいただく。

こちらは、さすがに品のいい脂がのっていて、さらりときれいな味がする。スモークしたような香ばしさもある。

そして、フナをひとくち。

お、まったく泥臭くない。

しかも、ぷりんぷりんしていて、魚臭さとは無縁の味わいだ。
大将の藤林茂さんに訊くと、獲ってから六日目だという。

ここで七本槍(しちほんやり)の活性にごり酒をひとすすり。
なぜかフナが甘く感じる。

「フナの子まぶしという文化は湖北のほうが根づいていますね。これはマブナですわ」
と藤林さんは言う。

「七本槍」は、織田信長が生まれた1534年創業の冨田酒造の酒。味わい重視の純米酒づくりにこだわっているという。

食べものと合わせてみて、そのことは合点がいった。日本酒のうまみが魚のうまみと相乗効果になっている。だからフナが甘く感じたのかもしれない。

この活性にごり酒は季節限定で、リンゴを思わせる上品な甘みと鮮烈な酸味、ほどよい苦みが一体となり、後味はとてもすっきりしている。出汁(だし)のきいた和食に合うようにデザインされた純米酒だ。

*    *    *

そうするうちに真打ち「ふなずし」の登場である。

ふなずしにはトラウマがある。いちど近江八幡で食べたことがあるが、あまり口に合わなかったのだ。なんといっても発酵食品。好き嫌いというか、互いの相性がある。

ちょっとどきどきしながら、ふなずしを待っていると、尻尾が妙にピンとはねたものが出てきたではないか。

オレンジ色の卵もねっとりしているし、ふなずしの片割れは炙られている。

鼻を寄せて、くんくん香りをきく──。

と、以前経験した、何とも言えない腐臭のようなものはまったくない。むしろセメダインのような、エステル香が香ってくる。

これならいけそうだ、とひとくち口に含んだとたん、おもわず顔がほころんでしまった。

心地よい酸味が鼻の奥にすーっと爽やかに抜けていく。
五月の風が水辺の葦をさやさや揺らしていくような、青い爽涼さがあるのだ。
一見して、ちょっと腰がひけてしまったフナの尻尾も、食べてみると、ぷにぷにとコラーゲンたっぷりで、あっと言う間に口の中で溶けていく。

おいしい食べものや飲みものは、存在がすぐ消えて、美味の記憶だけが残る。このふなずしの尻尾はまさにそれだった。

「近江一のふなずしを作ろと思て漬けてます。そやけど祖父と同じ味は一生でけんやろと思います。祖父のは、おやつがわりに食べました。もっとごつう切ってまんねん。お腹が痛かったり風邪引いたりしたら、ふなずしの頭を熱いお茶にポンとぶちかまして、飲ませてもうて、それでだいたい治りました。ふなずしは作り手によってまったく味が違うんです」

大将の話を聞きながら、ふたたび七本槍を飲る。

口中にやわらかな水の味がひろがり、脳裏には深いみどりの賤ヶ岳や姉川の風景が浮かんできた。

七本槍もふなずしも、きっと湖北の淡くかなしい青空を映した味わいなのかもしれない。

文&写真:吉村喜彦

  • 吉村 喜彦(よしむら のぶひこ)

    1954年大阪生まれ。京都大学教育学部卒業。サントリー宣伝部勤務を経て作家に。 著書に、小説『バー堂島』『バー・リバーサイド』『二子玉川物語』『酒の神さま』(ハルキ文庫) 『ビア・ボーイ』『こぼん』(新潮社、PHP文芸文庫)『ウイスキー・ボーイ』(PHP文芸文庫) ノンフィクションでは、『漁師になろうよ』『リキュール&スピリッツ通の本』(ともに小学館) 『マスター。ウイスキーください〜日本列島バーの旅』(コモンズ)『オキナワ海人日和』(三省堂) 『食べる、飲む、聞く 〜沖縄・美味の島』(光文社新書)『ヤポネシアちゃんぷるー』(アスペクト)など多数。 NHK-FMの人気番組「音楽遊覧飛行〜食と音楽でめぐる地球の旅」の構成・選曲・DJを長年つとめた。 現在、月刊「地域人」で全国の漁師を取材する「港町ブルース」を連載中。

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