特集・3.11 河北新報の10年—教訓の共有・記憶の伝承— 2021.3.9 鈴木 淳(すずき じゅん) 印刷する 発生翌日の朝刊。1面と8面を見開きにして被害の大きさを報じた(河北新報社提供)「パーン」と横っ面を張り飛ばされた感じがした。2月13日深夜の激しい揺れ。東日本大震災の余震だという。「震災を歴史にするには早すぎる」。そんな思いが脳裏をかすめた。犠牲者はいなかった。教訓が生きたと考えるのは手前みそか。 14日の朝刊1面は全て地震の記事だった。第1社会面、第2社会面も地震被害の記事で見開いた。14日夕、4ページの号外を発行した。朝刊に十分な情報を盛り込めなかったから。新聞は大切な生活インフラと震災から学んだ。 *** 夜遅く避難所で配られた河北新報号外=2011年3月11日(河北新報社提供)≪あくる朝心の底から吃驚(おどろ)いた3・12河北朝刊が来た≫小笠原順一 今年1月31日の河北歌壇入選作。2011年3月11日の震災から10年が過ぎても、翌朝の感動は鮮烈らしい。自分だって避難所に朝刊が届くとは、これっぽっちも思っていなかった。手から手に渡り、誰もがむさぼり読む。みんな情報に飢えていた。 河北新報社は仙台市に本社があり、東北6県に取材拠点を置く。世界最大級マグニチュード(M)9.0、最大震度7の大地震、20メートルを超す巨大津波。震災はわれわれの愛する家族、友人、隣人、いつか知り合うはずだった人たちの命を容赦なく奪った。犠牲は宮城だけでも万の単位を超えた。 津波で流された車やがれきで埋まった閖上=2011年3月12日(河北新報社提供)宮城県沖地震はほぼ38年周期で発生する。1978年にはM7.4の地震が起き、ブロック塀の下敷きになるなど27人が犠牲になった。次の発生が近づいた2003年から、防災報道に力を入れてきた。地震だけではなく、津波避難、過去の巨大津波も取り上げた。結果から言えば読者のためにはならなかった。 11年夏、県内の被災者100人に、河北の防災報道は役に立ったかを聞いた。72人が「あまり」あるいは「全く役に立たなかった」と答えた。記者の聞き取りでなかったら、否定がもっと多かっただろう。 紙面で呼び掛ける「広く浅い」報道だけでは避難に結び付かない。地域に出ていき、①教訓の共有②震災など災害の記憶の伝承③日頃の備えの訴え―などを目指す「狭く深い」報道に、かじを切った。災害時も新聞を発行し、情報提供を続けるのは言うまでもない。 防災を学ぶ中学生と話し合ったむすぶ塾=2020年9月8日(河北新報社提供)狭く深いの象徴が防災巡回ワークショップ「むすび塾」。12年5月に始めた。防災の専門家を交え、被災体験を語り合う。ほぼ月1回ペースで開催し、内容を月命日の紙面で紹介している。参加者は毎回7、8人。備え、避難、情報の大切さを確認する。今年2月13日に節目の100回になった。 北海道、東京などでも各地の地方紙と共催。共催をきっかけに高知新聞、宮崎日日新聞は、むすび塾を参考にした独自のワークショップを展開している。17年には防災の担い手を育てるため、大学、自治体と協力し高校生、大学生、若手社会人向けの通年講座「311『伝える/備える』次世代塾」を開講した。 *** 伝承の大切さを示す悲しい例がある。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区は、仙台の南に位置し5700人が暮らしていた港町。震災時、8.4メートルの大津波によって800人もが亡くなった。「閖上に津波は来ない」という誤った言い伝えが被害を大きくした。 津波で横倒しになった閖上の石碑(河北新報社提供)東北の太平洋岸は繰り返し大津波の被害を受けてきた。1933年の昭和三陸地震の際は閖上も津波に見舞われた。幸い人命は失われなかったが「地震があったら津波の用心」の警句や家畜被害などを刻んだ石碑が建てられた。78年後、警句を覚えている人はまれだった。「天災は忘れた『ところ』にやってくる」のかもしれない。 *** 浜や農村が元気でないと東北の本当の復興はならない。気になるのは東京電力福島第1原発の放射性物質トリチウムを含む処理水はどう処分されるのか。国は決定を先送りしているが海洋放出ありき。もし放出に踏み切れば、放射能汚染の風評によって福島の漁業者が目指す本格操業は夢と散り、宮城、岩手の漁業にも決定的なダメージになるだろう。 この10年、被災地はさまざまな人たちに支援してもらった。福島のメヒカリ、宮城のホヤ、岩手のホタテを消費者においしく食べてもらい、少しでも恩返ししたい。浜の元気が東北の活気につながるように、全漁連にはこれまで通り海洋放出反対を貫き、漁業者の心情に寄り添ってほしい。 【関連リンク】 ▶東日本大震災10年|河北新報社 東北鈴木 淳(すずき じゅん)1960年岩手県水沢市(現奥州市)生まれ。 早大卒。83年河北新報社入社。 2011年の震災時は編集局整理部副部長、同年6月から報道部副部長。 16年防災・教育室部長。19年同室長。20年編集局次長兼紙面管理部長。 震災取材には直接関わっていない。このライターの記事をもっと読む
【特集3.11】東日本大震災からの真の復興に向けて東日本大震災の発生から9年。 津波等で大きな被害を受けた東日本沿岸域の漁業関係者は、試行錯誤をしながら復興に向けた取り組みを、日々、続けています。 漁港や市場、水揚げ施設などの復旧はほぼ終わったものの2020.3.4特集・3.11JF全漁連編集部
【特集3.11】第5回「試験操業の現状と販路回復、浜の活性化に向けた取り組み」寄稿:林 薫平もう9年前になるが、2011年3月の地震・津波と原発事故以後の福島県の沿岸漁業を取り巻く状況は極めて流動的で、手探りの時期が続いていた。 2012年に入り、福島県の漁業者・水産関係者を中心に「福島県地2020.3.10特集・3.11JF全漁連編集部
【特集3.11】第3回「外部との交流によるJFひろた湾とNPO法人SETの取組」寄稿:大浦佳代震災後、復興や支援の名の下、漁村にも多くの人、物、事業が入り、その刺激はさまざまな変化をもたらした。 「奇跡の一本松」で一躍知られた岩手県陸前高田市で、まず、ひろた湾漁業協同組合(以下、JFひろた湾)2020.3.6特集・3.11大浦 佳代(おおうら かよ)
若手漁師コミュニティがリードする漁村復興―“なりわい”の未来をつくる青壮年部活動―(福島県・JF相馬双葉請戸地区青壮年部)—離れ離れになった彼らをつないだのは、「漁協(JF)青壮年部」というコミュニティだった— 東日本大震災、そして福島第一原発事故により避難区域に指定された福島県浪江町請戸(うけど)地区。そこは、腕っぷし2021.3.10特集・3.11JF全漁連編集部
職住一体の「まちづくり」(前編)—事前復興計画という考え方—漁村は⾃然と向き合いながら⽴地し、地形、⽣業、社会構造がダイレクトに呼応しながら⽬に⾒えるカタチで⼒強く存在する。 また、⾃然と⼈為の折り合いの中で、そこに住む⼈々の⻑い時間の営みの集積により創り出さ2021.3.8特集・3.11下田 元毅(しもだ もとき)
漁師中心のボランティア組織が人命を救う―海難事故における漁協と漁師が果たす役割―(徳島県・JF椿泊)国内で起きた海難事故の大部分は、漁師を中心とするボランティア組織の「水難救済会」によって救助される。この事実は一般的にあまり知られていない。 漁業・漁村の果たす役割の一つである「国民の生命・財産の保全2021.3.12特集・3.11JF全漁連編集部